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茂吉小公園と志文内峠

1 斎藤茂吉と中川町

歌碑

 

 斎藤茂吉は、明治15(1885)年7月27日に山形県で守谷熊次郎の三男として生まれ、14歳の時に斎藤紀一を頼って上京、医学の道に進み、後に紀一の婿養子となって斎藤病院の後継者となりました。旧制一高在学中、子規遺稿『竹の里歌』に感銘し、作歌を志したといいます。卒業後、医師としての仕事のかたわら伊藤左千夫に師事(※1)しました。

 明治41(1908)年には「アララギ」の創刊に加わり、大正2(1913)年に歌集『赤光(しゃっこう)』を刊行、歌人としての地位を確立しました。また、医学はもとより、柿本人麻呂の研究にも力を注ぎ、多くのすぐれた書画も残しています。歌集も数多く出版され、昭和28(1953)年2月25日、72歳で没するまで歌壇の中心であり続けました。教科書にも多くの歌が取り上げられているように、現在もその歌は広く読み継がれています。

 茂吉の6歳年上の次兄 守谷富太郎は、昭和3(1928)年12月から中川村志文内(現 中川町共和)の志文内診療所で拓殖医(※2)を務めていました。茂吉は昭和7(1932)年8月14日、弟の高橋四郎兵衛をつれて中川村の兄の元を訪れ、8月18日まで5日間滞在しました。兄 富太郎とは実に17年ぶりの再会でした。

 

 茂吉の日記には以下のように記されています。

 「豪雨ノナカヲ草草鞋ハキ徒歩ニテ志文内ニ向フ。若者二人ムカヒニ来ル。四郎兵衛ハルツクサツクヲ負フ。天塩川濁流サカマク。午後四時半志文内ノ富太郎兄ノ処ニ無事着ス。富太郎、富子途中マデ迎ニ来ル。十六,十七年ブリノ会合ナリ。」

 志文内での5日間に詠まれた歌として、第9歌集『石泉』のなかに「志文内」の47首、「志文内から稚内」の10首の計57首が収められています。

 

あをあをとおどろくばかり太き蕗が澤をうづめて生ひしげりたる

 

 「志文内」はこの歌から始まっています。人の背丈よりも大きな蕗が群生しているさまは驚きと同時に北国の自然への畏怖の念も混じっていたのではないでしょうか。茂吉は山形生まれですから蕗そのものは珍しいものではなかったはずですが、北海道のらさに北の果て近くまでやって来たという感慨が、真夏だというのに青々と群生している蕗への感動をより強いものにしたのかもしれません。

 志文内は現在の中川町字共和という、中川町字佐久からアベシナイ川に沿っておよそ15キロも奥へと入って行く文字どおり「人里はなれた」集落でした。また、茂吉が訪れた昭和7年当時は徒歩より交通手段などなく、茂吉も「豪雨ノナカ草鞋ハキ徒歩ニテ」約4時間もかけて行ったのです。

 

うつせみのはらから三人ここに会ひて涙のいずるごとき話す

おとうとは酒飲みながら祖父よりの遺伝のことをかたみにぞいふ

過去帳を繰るがごとくにつぎつぎに血すじを語りあふぞさびしき


 茂吉はこの前年に長兄を亡くしています。この兄の葬儀にも富太郎は出られませんでした。今のように代替の医師など居なかったでしょうから無理もありませんが、僻地で患者を数多く抱えていたであろう富太郎のことが伺えます。17年ぶりの三兄弟の再会でしたが、同時にこうして集えるのはこれが最後かも知れぬ、という思いもあったのではないでしょうか。

 茂吉の日記は上記のあと「ビール。ウイスキーノム。」と続きます。石油ランプの下で、話すことは尽きなかったに違いありません。

 

とほく来しわれに食はしむと家人は岩魚もとめて出でゆきにけり

志文内の山澤中に生くといふ岩魚を見ればひとつさへよし

ゐろり火にやまべあぶりていまだ食はず見つつしをれば楽しかりけり

 

 志文内の地名はアイヌ語のシュブンナイ(ウグイのいる川)が転訛したもので、今も志文内川や安平志内川にはウグイ、ヤマベ(山女)、イワナが沢山いて、多くの釣り人が訪れます。食いしん坊であったといわれる茂吉にはうれしいもてなしであったことでしょう。


山なかにくすしいとなみゐる兄はゴム長靴をいくつも持てり

午前二時すぎとおぼしきころほひに往診に行くと兄のこゑする

ひと寝入りせしかせぬまに山こえて兄は往診に行かねばならぬ

 

 「兄ハ往診等アレバ二里ノ山道デモスグ行ク。」

 茂吉は歌人であるとともに有能な医師でもありました。同じ医師として、北海道の山奥の小さな集落で患者と向き合う兄の姿に、なにか特別なものを感じたことでしょう。また、幼いころより親しみ、尊敬してきた兄そのものであったと、うれしくも思ったかもしれません。

 

妻運のうすきはらからとおもへども北ぐににして老に入りけむ

かすかなるもののごとくにわが兄は北ぐにに老いぬ尊かりけり

わが兄のひとりごをとめ北ぐにの言になまりつつ五日したしむ

 

 茂吉は14歳のときに上京し、斎藤家に寄宿していましたが、ある時期富太郎も鉄道学校に入学するために上京し、同じく斎藤家に寄宿しました。当時、斎藤紀一の浅草病院には同郷や血縁の青年が何人も書生として住み込んでおり、茂吉と富太郎は一時期東京の同じ屋根の下で暮らしていたのです。富太郎は1年余りで斎藤家を離れ、鉄道学校も辞めて済生学舎という医師になる専門学校に入ります。翌年、応召して満州へ渡り、その翌年には医師開業試験に合格しています。その後、明治42年から北海道の各地を僻地の村医として暮らしていました。この地を選び、「かすかなるもののごとくに」老いてゆく兄、兄弟でありまた同じ医師でありながら茂吉とは全く別の道を歩いていたのです。

 茂吉が訪れた頃には富太郎は一人娘の富子と、彼女にとっては継母にあたる後妻と暮らしていました(この後妻のことは茂吉の日記では触れられていません)。この地で育った富子が北海道のなまりで話すのはごく当然のことであったと思われます。

 明るく、利発な少女は茂吉兄弟の滞在中、かいがいしく接待にあたり、茂吉もまたこの姪をとても親しく思っていたようです。しかし、彼女は後に若くして亡くなってしまいます。

 

小学のをさなごどもは朝な朝なこの一峠走りつつ越ゆ

笹むらのしげりなだれしこの澤を熊は立ちざまに走り越ゆとふ

原始林の麓をすぎてけだものの住みをることをかつては思はず

白樺の年ふりにける一つ木の立てるもさびし北ぐにのやま

 

 「八月十八日 午后。四郎兵衛。富子ト三人デ峠ニ行ク。原始林ナリ。」

 志文内から佐久へ出る最短の道が志文内峠でした。茂吉が兄富太郎の住む診療所まで歩いたのはこの道ではなく、アベシナイ川に沿った街道であったようですが、姪の富子に案内されてこの峠道を歩きました。

 つづら折の峠道は急な坂道で、昼間でも鬱蒼としています。

 この道はまた、長く子供たちの通学路としても使われており、冬などはスキーを履いて通ったそうです。

 

除蟲菊を山奥に植ゑて日もすがら年老いし人ひとりゐる見ゆ

いささかのトマトを植ゑてありしかど青きながらに霜は降るとふ

かはかみの小畑にまで薄荷植ゑてかすかに人は住みつきにけり

旅とほく來りてみれば八月のなかばといふに麦を刈るなり

 

 これらの歌は、当時の志文内周辺の農業を知る貴重な手がかりとなります。志文内周辺の集落は山峡で傾斜地が多く、稲作も北限でありあまり適してはいませんでした。交通の便も悪いために輸送費のかからない薄荷、小豆、除虫菊などが主な農作物でした。ほかにも馬鈴薯、ビート、燕麦、麦、亜麻なども作られていましたが、これらは輸送費がかかるために多くは作られなかったようです。

 薄荷は明治44年に、ある民間人によって持ち込まれ、全戸に苗を分けて広まりました。最盛期にはハッカ成金が出るほどに潤い、北見と中川で全国の80%も占めるほどでしたが価格の変動が激しく、需要の低迷とともに大正14(1925)年を境に減少していきました。


この村の八人つどひて酒のみぬ宮城あがたの人秋田あがたの人

一週に一度豆腐をつくる村の幸福のごとかたりあへるかな

 

 かの有名な歌人、斎藤茂吉の来訪ということで、地区の有志が集まりました。八人というのは小学校長、郵便局長、店の主人、区長、村会議長と茂吉三兄弟のことです。そのなかに宮城県出身の人やら秋田県出身の人がいたというのは開拓の地北海道らしい歌ではありますが、当時志文内の住民の多くは岐阜県人であったといいます。

 当時この集落の楽しみの一つに豆腐作りがありました。各家で月に数回豆腐を作り、隣近所で分け合ったそうです。


秋の夜の身に沁むごとくさ夜なかと更けゆきにけりまどかなる月

さ夜なかと夜は過ぎつつ志文内の山のうへ照らす月のかげのさやけさ

二日降りし雨雲とほく退きながらありあけのつき空ひくく見ゆ

 

 茂吉が志文内に滞在中は雨が続いていましたが、ここを発つ前夜、やっと晴れました。この前夜にも少しだけ晴れ間があり、十六夜の月(満月から少し欠けはじめた月)が見られたようです。
 16日にはやっと畑の水が引いたとありますからかなりの雨量だったと思われます。

 

この谷の奥より掘りしアンモナイト貝の化石を兄は呉れたり

 

 志文内よりさらに奥に、化石沢という多くの化石が取れる沢があります。富太郎も化石に興味を持ち、収集にも熱心だったといいます。茂吉が訪れた折には直径50cm、高さ30cmという大きなものを弟と共に譲り受けたそうです。

 

あかつきの蝉さへ鳴かぬ道のべになごりを惜しむあゆみとどめつ

五日まへに雨にぬれつつ來し道を日に照らされていまぞあゆめる

つかれつつ佐久に着きたり小料理店運送店蹄鉄鍛冶馬橇工場等々

天塩川のあかくにごれるいきほひをまぢかに見ておどろくわれは

 

 5日前には雨にぬれながら歩いた道でしたが、帰りは晴れていました。しかし、雨後で川はまだ増水していたのでしょう、その水の勢いを、驚きをもって茂吉は眺めていたのです。

 こののち茂吉と高橋四郎兵衛は稚内、樺太へと向かいます。

 

※1 伊藤左千夫は『野菊の墓』を著した作家としてのイメージが強くありますが、正岡子規晩年の門人であり、子規の没後は短歌部門を引き継ぎ、釈迢空、斎藤茂吉、島木赤彦、土屋文明などの弟子を引きつれて根岸短歌会を繁栄させました。


※2 拓殖医制度:道庁では北海道の開拓には医療行政は欠かせないものとして、第一期拓殖計画(明治45年~昭和2年)の中では嘱託医制度を、第二期拓殖計画(昭和2年から22年)の中では拓殖医制度を設け、いずれも補助金を交付して、医師の開業や定着を図る施策を講じています。

 

参考文献

『斎藤茂吉全集第三十巻 日記』(岩波書店、1974)
『茂吉の足あと』鈴木啓蔵著(短歌新聞社、1974)
『中川町史』(中川町役場、1975)
『斎藤茂吉志文内の五日間(57首の背景と歴史)』(原康廣著、2002)
『茂吉めぐり』松本武著(短歌新聞社、2003)
『茂吉を読む』小池光著(五柳書院、2003)
『石泉』を中心とした茂吉像―志文内の五日間』西勝洋一著(『西勝洋一歌集』砂小屋書房より、2004)

 

2 茂吉小公園

 志文内(現共和)にあった守谷富太郎の診療所の前に、1978(昭和53)年10月に茂吉の来町を記念する歌碑が建てられました。診療所は1993(平成5)年に老朽化のために解体されましたが、その跡地と茂吉歌碑を中心に茂吉小公園として整備・保存されています。

 小さな公園ですが、短歌フェスティバルの歴代の入選歌も掲示されており、短歌に親しむ人々の吟行ポイントとなっています。

 

茂吉小公園

 

入賞作品

 

3 志文内峠

 志文内峠は、昔は通学などの生活道路として使われていましたが、安平志内川沿いの道道が整備されてからは全く使われなくなっていました。その後、斎藤茂吉に関連する事業の一環として2002(平成14)年に復元され、「志文内峠路」として、整備・保存されています。短歌を愛好する人々の吟行ポイントとして、茂吉ファンだけでなく毎年多くの人が訪れます。

 

志文内峠

 

 共和側の入り口からは沢越えなどもなく、比較的楽に頂上まで登れます。安川側までは途中悪路がありますが、1時間30分ほどの道のりで、気軽なハイキングコースとしても楽しめます。峠越えをするときには長靴を履いたほうが良いでしょう。

 

共和側入り口

 

 茂吉は、姪の富子に案内されてこの峠を歩いたといわれています。富太郎の診療所のあった場所から共和側の入り口はすぐ近くなので、「おじさん、山へ行こうよ!」とでも言って出掛けたのかもしれません。

 

安川側入り口

発信元:産業振興課 産業振興室 最終更新日:2011年10月11日

メールアドレス:nakagawa-sangyo@mint.hokkai.net

電話番号:01656-7-2816 ファクシミリ番号:01656-7-3511

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